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【解説】 いったい何のための戦争だったのか……米・イラン合意で浮かぶ避けがたい疑問 BBC国際編集長
ジェレミー・ボウエン BBC国際編集長
アメリカのドナルド・トランプ大統領とイランのマスード・ペゼシュキアン大統領が署名した覚書には、アメリカとイスラエルが今年2月28日にイスラエルを攻撃すると決めた、誤った判断の結果、どういう政治的、軍事的、経済的な結果につながったかが列記されている。
人命への損失はすでに明らかだ。イランとレバノンでは、数千人が殺害された。その多くが民間人だ。
アメリカと、そしてひいてはイスラエルは、戦略的に敗北した。イランの政権は最悪の悪夢に直面していた。世界最強の大国アメリカと中東の超大国イスラエルが共同で、自分たちを弱体化または破壊するための軍事作戦を開始したのだ。しかしその結果、イランの政権はただ生き残っただけではない。イランは力を増した。
イランはホルムズ海峡を封鎖することで、世界の石油・ガス供給量の2割を封じ込めた。それに伴い、世界経済を構成する他の重要製品も封じ込めた。この戦略により、トランプ氏は次々と譲歩するしかなくなったが、その結果として、トランプ氏はアメリカの対イラン強硬派とイスラエル政府を激怒させ、警戒させる羽目になった。
アメリカとイランの覚書(MOU)は、レバノンにおける戦争の終結を求めている。イスラエルは、それはあり得ないと主張する。イスラエルは、レバノンで自由に動きたいのだ。そして、この問題はイスラエルとアメリカの亀裂をさらに広げる可能性がある。そのようなことになれば、アメリカとの一切の取引に反対するイランの強硬派の思うつぼだ。
覚書には、海峡再開の見返りとして、アメリカはイランの港湾封鎖を解除し、イランが石油輸出から何十億ドルもの収入を得られるように制裁を解除し、海外で凍結保有していたイラン資産の凍結を解除することでさらに数十億ドルをイランに返す手続きを開始すると書かれている。
しかも、これがまず先にあって、その後から、イランの核開発に関する合意を目指す厳しい本格交渉を開始するというのだ。つまり、アメリカとイスラエルがイランを攻撃し始める前日、2月27日の状態に戻るための代償を、まずは払うということだ。2月27日には、物資を運ぶ船舶はホルムズ海峡を通航していたし、アメリカとイランの交渉担当者は核合意について話し合っていた。
覚書に調印したことで、交渉担当者は交渉の仕事を再開し、船舶はホルムズ海峡を通過できるようになる。
ジョー・バイデン政権の国務長官だったアントニー・ブリンケン氏はソーシャルメディア「X」で、「この停戦の唯一の『成果』は、戦争が始まる前に開通していたホルムズ海峡がおそらく再開されるだろうという、それだけだ。しかもどうやら、我々はそのためにイランに金を払うのだ」と書いた。
いったい何のための戦争だったのか。この疑問は避けがたく、消えてなくならないはずだ。これはトランプ氏にとって、これまでで最悪の外交政策の失敗にほかならない。
またこれを機に、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相の長い政治家人生も終わる可能性がある。イスラエルでは10月に選挙が控えており、ネタニヤフ氏は有権者の審判を受ける。イスラエル自慢の軍隊と情報機関は、2023年10月7日より前に、ガザからイスラエルを奇襲するというイスラム組織ハマスの計画に気づけなかった。イスラエル史上最悪のこの治安当局の失策について、有権者が首相の責任をどう問うのかが注目されている。ネタニヤフ氏がその後、軍事的な強硬路線をとり、外交を打ち捨てたのは、イスラエルの「ミスター・セキュリティ」を自認してきた自分の評価を回復するための行動でもあった。
対するイラン政府は、ホルムズ海峡の封鎖にどういう威力があるか、常に承知していた。米軍も、アメリカの外交官たちも、アメリカのスパイも同様に承知していた。
それでも、イランの前最高指導者、故アリ・ハメネイ師は高齢で、そして用心深かった。海峡を武器にするリスクは避けるという選択をした。
そのハメネイ師と側近たちを、イスラエルは今回の戦争で真っ先に殺害した。その空爆を経て、残された政権幹部たちは、これは自分たちの存亡をかけた戦いだと正しく認識し、ためらうことなく海峡を封鎖した
彼らは、世界経済の急所をコントロールする力を見出したのだ。何十年、何十億ドルもかけて中東で築き上げてきた同盟国や代理勢力のネットワークよりも、ホルムズ海峡封鎖はるかに使いやすい武器で、はるかに安上がりだ。
2024年末に崩壊したシリアのアサド政権を除けば、イランが築いたいわゆる「抵抗の枢軸」はほぼほぼ、残っている。ただし、イスラエルによってあまりに甚大な被害を受けているため、実際に「抵抗」できるかどうかは甚だ怪しい。
イランは核開発計画にも資金を注ぎ込んできた。核開発計画は兵器製造を目的としていないとイランは言い続けるが、その計画の存在によってイランは選択肢を手にしたし、周囲を威圧する手段を手にした。しかし、イランに核計画があるからこそ、今回の戦争に至ったわけで、政権は確かに生き永らえたが、イランそのものは甚大な被害を受けた。
「抵抗の枢軸」や核開発とは対照的に、ホルムズ封鎖は簡単で、あっという間に相手にとって壊滅的な効果があった。打撃は湾岸のアラブ産油国だけでなく、世界のほとんどの国に広がった。
アメリカとイスラエルはその強力な空軍によって、一連の戦術的勝利を収めた。しかし、それでは戦略的な敗北を避けられなかった。なぜなら、イランの体制転換を狙ったアメリカとイランの戦略は、いい加減で雑な誤った思い込みを前提にしていたからだ。
アメリカとイスラエルは、最高指導者を殺しさえすればイランの政権は崩壊するものと思い込んでいた。しかし、イラン・イスラム共和国は半世紀近くもの間、自国を破壊しようとする勢力に抵抗することを目的に、その国の制度を構築してきた。
イランは中南米のヴェネズエラとは違う。ヴェネズエラの腐敗した独裁政権は、指導者が拉致されてアメリカで裁判にかけられて、ぐしゃっと崩壊した。イランの政権は間違いなく腐敗しているし、間違いなくきわめて抑圧的だ。この政権は今年1月にイラン各地の街頭で政府に抗議した多くの自国民を、次々と殺した。しかしそれと同時に、この政権はイデオロギーと宗教的な信念に基づいてできている。さらに、1980年代にサダム・フセイン率いるイラク相手に戦った悲惨な戦争に由来する、国としての安全保障と殉教と生存の概念を、政権立脚の柱としている。
戦争を始めた時点でトランプ大統領は、テヘランの政権は崩壊すると述べた。イランの人々に、今こそ一世一代の、自分たちの国を取り戻す機会だ、心して準備するようにと呼びかけた。そして間もなく、彼はイランに無条件降伏を要求した。
ネタニヤフ首相はそれまで、歴代のアメリカ大統領にイランと戦争するよう説得し続けてきたが、トランプ氏相手に遂に説得に成功した。そして、これから起こるはずと信じていた展開のとてつもなさを、旧約聖書の表現を借りて、こう語った。「この力の連合により、私が40年間切望してきたことが遂に可能になる。つまりテロ政権の腰やももをたたき、容赦なく打ちのめすのだ」。
両首脳の開戦の弁は、どちらも実現していない。
今回の覚書は最終合意ではない。これは、アメリカとイランの間の最大懸念事項、つまりイランの核開発計画について、これから話し合おうという合意だ。しかし、その前段階として、イランを交渉の席に着かせるための材料をまず差し出している。交渉が進むなら、アメリカは対イラン制裁を解除すると述べている。
何もかも、核合意に関する60日間の交渉が成功するかどうかにかかっている。この期間は延長可能だし、交渉の対象となる懸案は複雑なので、おそらく延長されるだろう。
どちらも相手を信用していない。うまくいかないかもしれない難問は山積している。アメリカでもイランでもイスラエルでも、強硬派は、この合意の成功を望んでいない。
イランが強気に出すぎる可能性もある。今後の交渉で、最大限の要求を譲らずつっぱねて、破綻した自国経済を救える経済的利益を危うくする可能性もある。
それでもこの合意は、何千人もの人が殺害され、世界的な景気後退の危険で世界を脅かした戦争よりも、よほどましだ。
アメリカとイランの双方が納得できる核合意がまとまり、両国が約束を守るなら、中東が様変わりする可能性もある。しかし、それにはまだ大きな疑問符がついているし、そこに至るまでには長くて難しい交渉が控えている。