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ゴルバチョフ氏の葬儀にモスクワで多くの市民が行列 プーチン氏は欠席
スティーヴ・ローゼンバーグBBCロシア編集長(モスクワ)、ポーリン・コーラBBCニュース記者(ロンドン)
ソヴィエト連邦最後の指導者だったミハイル・ゴルバチョフ元大統領の葬儀が3日午前、モスクワであり、数千人の市民が列をなして参列した。しかし、国葬ではなく、ウラジーミル・プーチン大統領は欠席した。元大統領はその後、市内のノボデヴィッチ修道院の墓地に埋葬された。
8月30日に91歳で死去したゴルバチョフ氏の告別式は、モスクワの労働組合会館「円柱ホール」で行われた。開かれた棺に横たわる元大統領の遺体に最後のお別れをするため、多くの市民が何時間も並んだ。儀仗兵(ぎじょうへい)が護衛する会場には、ゴルバチョフ氏の遺影が掲げられていた。
娘をはじめとする遺族が見守る中、市民は次々と赤いカーネーションなどの花束を手向けた。
同じ円柱ホールは過去に、レーニンやスターリン、ブレジネフといった歴代のソ連最高指導者の遺体が、しばし安置された場所でもある。
ソ連崩壊時の大統領だったゴルバチョフ氏の葬儀は、国葬の扱いではなかった。ソ連崩壊を「20世紀最大の地政学的悲劇」と呼ぶプーチン大統領は、出席しなかった。欠席の理由についてロシア政府は、スケジュールの都合がつかないからだと説明している。
老いも若きも
多くのロシア人は、ゴルバチョフ氏によるさまざまな改革が、ソ連崩壊の前触れとなった経済の混乱を引き起こしたと非難する。
しかし、円柱ホールの周辺では、老いも若きも、多くの市民が長蛇の列をなした。
その1人のスタニスラフさんはBBCに、「ゴルバチョフは自分たちに希望をくれた。自由を夢見る手助けをしてくれた」、「この社会が自由に別れを告げているのではないと思いたい」と話した。
「この国を時代遅れな権威主義から救い出すため、最善を尽くした人へのお別れだ」と、年金生活者で長年のゴルバチョフ支持者だというオルガさんは話した。
リベラル政治家のベテラン、グリゴリー・ヤヴリンスキー氏も行列した1人で、「この人たちは『ゴルバチョフさん、ありがとう。あなたはチャンスをくれたけれど、私たちはそのチャンスを失ってしまった』と言いに来た」のだと話した。
予想を上回る数の市民が並んだため、告別式は時間が延長された。
参列者の中には、プーチン氏と親しいハンガリーのオルバン・ヴィクトル首相の姿があった。外国首脳の参列者はほかにはいなかった様子。
ほかにもプーチン氏の盟友、ドミトリー・メドヴェージェフ前大統領が参列。現在は安全保障会議副議長のメドヴェージェフ氏はこの後、1991年のソ連崩壊に触れた上で、アメリカをはじめとする西側諸国が今ではロシア解体を画策しているとソーシャルメディアで非難した。
外国からは、アメリカ、イギリス、ドイツの駐モスクワ大使たちが参列した。
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同じノーベル平和賞受賞者が先導
ゴルバチョフ氏の遺体は、告別式会場の円柱ホールから、市内のノボデヴィッチ墓地まで運ばれた。遺影を手に、葬列の先頭に立ったのは、親しい友人で同じくノーベル平和賞受賞者の、リベラル派ジャーナリスト、ドミトリー・ムラトフ氏だった。
墓所に至る通路の左右には、遺族や同僚、政府機関や外国の大使館から贈られた花輪が並んだ。
墓に棺が納められると、軍楽隊がロシア国歌を演奏し、礼砲が響いた。
ゴルバチョフ氏は、1999年に亡くなった妻ライサさんの隣に埋葬された。
国葬ではなく
市民の参列は予想を超えたものの、これが国葬でなかったことからも、現在のロシア政府がゴルバチョフ氏の業績をたたえるつもりがないことがうかがえる。
プーチン氏とゴルバチョフ氏の関係が決して良くなかったことは、広く知られている。2人が最後に対面したのは2006年だったとされる。
最近では、ゴルバチョフ氏はロシアのウクライナ侵攻に批判的だったと言われている。ただし、2014年のクリミア半島併合は支持していた。
ロシアの外では広く尊敬された。国連のアントニオ・グテーレス事務総長は「歴史の方向を変えた」と評価し、ジョー・バイデン米大統領は「たぐいまれな指導者」だったとたたえた。
西側諸国にとってゴルバチョフ氏は、「ペレストロイカ(建て直し)」や「グラスノスチ(情報公開)」といった国内改革の実施を通じて、1991年の冷戦終結に至る条件を作り上げた立役者だった。1990年には「東西関係の抜本的な変化において指導的な役割を果たした」として、ノーベル平和賞を受賞した。
しかし、ソ連崩壊後の新しいロシアでは、政治の中枢にかかわることはなく、教育や人道関係の事業に取り組んだ。
1996年の大統領選で政界復帰を目指したものの、わずか0.5%の票しか得られずに終わった。