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ジスカールデスタン元仏大統領、94歳で死去
1974年から1981年にかけて第20代フランス大統領を務めたヴァレリー・ジスカールデスタン氏が2日、亡くなった。94歳だった。
ジスカールデスタン氏は新型コロナウイルスの合併症により、フランス中部の自宅で家族に囲まれて息を引き取った。
中道右派で親欧州派の政治家だった同氏は、大統領を務めた7年間に離婚や人工妊娠中絶、避妊手段に関する法規制を緩和した。
フランス史上3番目に若い大統領となったが、多くの人から傲慢(ごうまん)で冷淡な人物として見られ、大統領としての人気は長く続かなかった。最終的には左派と右派の両方の不支持が強まり、大統領職から追い出されることとなった。
大統領退任後の政治人生は、エリゼ宮殿(仏大統領官邸)を目指した時よりも長いものとなった。
晩年は、自分自身をフランス政治の大御所と表現するのを好んでいた。
今年5月には、ドイツ人女性記者がジスカールデスタン氏から性的暴行を受けたと告訴し、仏検察当局が捜査を開始したと明らかにした。ジスカールデスタン氏は否定していた。
仏史上3番目に若い大統領
ジスカールデスタン氏は1926年2月2日、当時フランスの占領下にあったドイツ・コブレンツで生まれた。父親はフランス占領軍で働く公務員、母親はフランス国王ルイ15世の愛人の1人の子孫。
フランス国立行政学院卒業後、財務省に入省。1956年に下院議員に初当選し、その後、財務経済相などを歴任した。
1974年にジョルジュ・ポンピドゥー第19代大統領が急死すると、ド・ゴール主義の厳格な保守主義に代わる、現代的な穏健派として大統領選に出馬した。
当時48歳だったジスカールデスタン氏の得票率は50.7%で、社会主義者のフランソワ・ミッテラン氏を僅差で破り、フランス史上3番目に若い大統領となった。
中絶の合法化や女性の権利向上推し進める
大統領就任後は、選挙権年齢を21歳から18歳に引き下げたほか、カトリック教会から激しい反対がある中、離婚や人工妊娠中絶に関する法律を緩和するなどした。
また、女性の賃金や雇用機会均等に関する法律を制定し、定年を60歳に引き下げた。1975年にはパリの自治を認め、市長を選挙で決められるようにした。
死刑反対を唱えながらも、任期中に言い渡された死刑判決のうち3件については減刑を拒否した。フランスでギロチンが最後に使用されたのは、大統領在任中の1977年だった。
テクノロジー好きで、1976年に本格的に建設が始まった同国の高速鉄道網「TGV」を強力に支持していた。
1973年の石油危機後は、同国の原子力発電への依存度を高めることを熱心に支持した。
欧州統合
ジスカールデスタン氏は欧州の理想のために尽力し、ドイツのヘルムート・シュミット第5代首相と親密な関係を築いた。2人はより統合された欧州という夢を現実のものとした。
1974年の欧州理事会の定例化にジスカールデスタン氏は大きく貢献した。1979年には欧州通貨制度を推進した。
しかし、ジスカールデスタン氏の国内改革は保守的な政治家たちを不安にさせ、ジャック・シラク氏は1976年に首相を辞任した。後任のレイモン・バール氏は緊縮財政を導入し、失業率が上昇し始めた。
ジスカールデスタン氏の人気は衰え始め、中央アフリカ共和国の皇帝を自称するジャン=ベデル・ボカサ氏からダイヤモンドの贈り物を受け取ったと告発されてからは、同氏の地位は向上しなかった。
ボカサ氏の残忍な独裁政治は仏政府から大きな支援を受けていた。1975年にはジスカールデスタン氏が自分はボカサ氏の「友人であり家族の一員」だと宣言した。
ダイヤモンドについては当初、売却して得た資金を多くの慈善団体に寄付したと説明。しかし、寄付した団体の1つとされた赤十字社が寄付は受けていないと述べた。
ジスカールデスタン氏は1981年の大統領選でフランソワ・ミッテラン氏に破れた。
1989年から1993年まで欧州議会議員を務めた。その後、欧州連合(EU)の諮問会議の議長としてEU憲法の起草に関わり、再び注目を集めた。