【解説】「アンディ」が英首相になるのは初、しかしバーナム氏は何十年もかけて官邸を目指した

濃い色のシャツを着た笑顔のアンディ・バーナム氏が、大勢に囲まれている

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今月17日にイギリス与党・労働党の党首になったアンディ・バーナム氏は、20日にも第59代イギリス首相に就任する。

ロンドンのダウニング街10番地(首相官邸)に「アンドリュー」が住むのは、これが初めてではない。1992年には、アンドリュー・ボナー・ロー氏が初の「アンドリュー」として、首相官邸の住人となった。

しかし、「アンディ」が首相官邸の主となるのは、バーナム氏が初めてだ。

バーナム氏のフルネームは「アンドリュー・マリー・バーナム」だが、政治家としては一貫して、アンドリューの愛称「アンディ」を名乗ってきた。文書も「アンディ」で署名する。

その政治的ブランドは何よりも、気さくな親しみやすさを一番の売りにしている。「vote Andy(アンディに投票を)」という選挙スローガンはもう長年にわたり、数々の選挙で成功してきた。

バーナム氏はまた、「北イングランド出身」を自認している。これは首相としては、1960年代から1970年代にかけて首相を歴任したハロルド・ウィルソン氏以来のことだ。

ウィルソン首相以降にも北イングランドをルーツにもつ首相はいたが、それを自分のセールスポイントの核心として押し出した首相は、バーナム氏のほかにいない。

バーナム氏は「北の王」という異名さえ持っている。これは、2020年の野外演説で、グレーター・マンチェスターはもうこれ以上、中央政府による新型コロナウイルス関連の規制を受け入れないと宣言したことがきっかけとなった。

しかし、56歳になるバーナム氏の政界キャリアは長い。同氏はイギリス政界の中心であるロンドン・ウェストミンスターで、典型的な政治関係者としてそのキャリアを開始。2001年には、故郷に近いグレーター・マンチェスターのリー選挙区で、下院議員に初当選した。

先月19日にあらためて下院議員に復帰してからまだ約1カ月しかたっていないが、その権力への道のりは何十年にもわたって築かれてきたものだ。

2010年の総選挙で労働党が敗れると、ブラウン氏の後任を目指して党首選に出馬。5人中4位となりエド・ミリバンド氏に敗れたが、その後も支持基盤を築き続けた。2015年にも党首選に再挑戦したが、この時はジェレミー・コービン氏に敗れた。

もし、2017年に行政区分が変わったグレーター・マンチェスターの初代市長選に立候補するという賭けに出ていなかったら、彼は政治史の片隅にひっそりと名を残すだけの存在になっていたかもしれない。

当時、地方市長という制度はまだ確立されていなかったが、バーナムはその立場で本領を発揮した。軽蔑すると公言するロンドン中心のウェストミンスター政治に染まらない、強力な政治基盤を築き上げた。

エヴァートンFCやインディーズ音楽のファン

バーナム氏は1970年にリヴァプールで生まれた。リヴァプールとマンチェスターの間にあるチェシャー州カルチェスという静かな村で、3人兄弟の真ん中の子どもとして育った。父親は英通信大手ブリティッシュ・テレコム(BT)のエンジニア、母親は総合診療医(かかりつけ医)の受付だった。労働党支持者の両親のもと、幼いころから政治に関心を持つようになった。

バーナム氏は、14歳で労働党に入党した。そのきっかけは、1982年に放送されたBBCのテレビドラマに感動したからだったと話している。「ボーイズ・フロム・ザ・ブラックスタッフ」は、サッチャー政権時代にリヴァプールで失業手当を受けながら暮らす人々を描いた物語だった。

幼いころから英プレミアリーグのエヴァートンFCのファンで、当時の友人たちは、競争心が強くスポーツに夢中だったとバーナム氏を記憶している。ランカシャーの少年クリケットチームでは、速球投手として活躍していたという。

兄弟3人は、一家の中で初めて大学へ進学。アンディはケンブリッジ大学で英文学を学んだ。しかし当時について後に著書で、「居場所を見つけるのに苦労」し、「自分のことを場違いな偽物」のように感じていたと書いている。

一方、ザ・スミスやザ・ストーン・ローゼズといった北部のインディーバンドが大好きで、「マンチェスター音楽に興味を持ち始めたことで、自分のアイデンティティーを手にしたし、それが自分の利点になった」とも書いている。

赤いジャージを着た幼い男の子2人と並んで学校のテーブルに座る笑顔のバーナム氏と、その後ろから前かがみになり、笑顔で子どもたちに話しかけるスターマー氏。2人とも黒い上着にシャツ、黒縁のめがねをかけている

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画像説明, 今年4月にグレーター・マンチェスターのアシュトンを訪れ、学校を視察した当時のスターマー首相(中央)とバーナム市長

下院議員から市長へ

大学卒業後は複数の業界新聞社で勤務した後、20代の内に、後にトニー・ブレアおよびゴードン・ブラウン政権で閣僚となるテッサ・ジャウェル議員のもとでリサーチャーとして働き、政界入りのきっかけを手にした。ジャウェル議員は後に、トニー・ブレア、ゴードン・ブレア両首相の政権で入閣している。

バーナム氏は党内で急速に頭角を現し、ブレア政権ではクリス・スミス文化相の特別顧問となった。2001年にグレーター・マンチェスターのリー選挙区で、下院議員に初当選した。

ブレア政権で閣外相として初入閣した後、ブラウン政権で財務首席政務次官、文化相、保健相を歴任した。

リヴァプールのサポーター97人が死亡した1989年のヒルズバラ・スタジアム圧死事故の20周年追悼式に、文化・メディア・スポーツ相として出席した際、大勢からやじを浴びた。これを機に、閣議で再調査の必要性を主張したことが、事故原因の2度目の調査開始につながった。

サッカーのピッチで白いジャージーと黒いパンツ、黒い靴下にシューズ姿のバーナム氏が、地面すれすれまで沈み込み、右足でボールを蹴っている

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画像説明, バーナム氏はサッカー好きで知られ、労働党議員と政治記者たちの毎年の交流試合では選手として常連だった

2010年の総選挙で労働党が敗れると、ブラウン氏の後任を目指して党首選に出馬。5人中4位となりエド・ミリバンド氏に敗れたが、その後も草の根の支持基盤を築き続けた。

2015年にも党首選に再挑戦したが、この時はジェレミー・コービン氏に敗れた。

バーナム氏の政治姿勢については、成功のために政治的風向きに応じて主張を変える、風見鶏だと批判されることもある。

コービン党首率いる影の内閣では、影の内相を務めたが、党内ではブレア派の中道右派と見られていた。しかしその後、その立場は次第に左寄りになり、水道やエネルギーの国有化を支持するようになった。

2016年には労働党内で、コービン党首の指導力に抗議して影の内閣の閣僚が次々と辞任した。しかし、バーナム氏はそうしなかった。

それでも2017年には影の内閣から辞任し、グレーター・マンチェスター初の市長選に出馬。得票率60%以上で当選し、2021年にはさらに大差で再選された。

拍手する人たちと、沈痛な面持ちで握手するバーナム氏

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画像説明, バーナム氏は2014年、ヒルズバラ・スタジアム圧死事故の25周年追悼式典で演説した

交通システム改革と中央政府との対立

市長としてバーナム氏は、地域の交通システム改革で高く評価された。

そのリーダーシップの下、グレーター・マンチェスターはロンドンを除きイングランドで初めてバス運行事業を再び公営化し、「ビー・ネットワーク」というブランド名のもと、他の交通手段との統合を実現した。

2020年までに地域の路上生活をすべて解消するという大胆な公約も掲げたが、この目標は達成されなかった。

新型コロナウイルスのパンデミック中には地域別ロックダウンをめぐり、イングランド北部を「軽視している」と保守党政権を非難し、その存在感を高めた。時の政権と真っ向から対立したことで、「北の王」との異名を得た。

バスの運転席に笑顔で座りハンドルを握るバーナム氏。窓の外に「BEE NETWORK」と書かれた黄色い車体の二階建てバスが見える

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画像説明, 市長としては、グレーター・マンチェスターで鉄道、路面電車、路線バスなどの公共交通を統合した「ビー・ネットワーク」の導入が高く評価されている

最近では、2025年秋の労働党大会まで、党首の座を公然と目指す動きを重ね、出馬の可能性を否定しなかった。しかし、政府が国債市場に「従属している」とする発言が反発を招いた。

今年1月には、中央政界復帰の可能性が生じた。グレーター・マンチェスター選出のアンドリュー・グウィン議員が辞職を発表し、ゴートン・アンド・デントン選挙区で補選が行われることになったため、バーナム氏は出馬の意向を示したが、当時のキア・スターマー首相の承認のもと、党執行部は現職市長の立候補を認めなかった。

しかし、5月に状況は一変した。労働党はイングランド、スコットランド、ウェールズでの地方選挙で惨敗した。野党リフォームUKは世論調査で高い支持率を獲得、バーナム氏の地元でも成功を収めた。

これを受けてスターマー首相は党内から、強い辞任圧力にさらされた。複数の下院議員や閣僚の辞任が相次いだ。労働党の規則では、下院議員でなければ党首に立候補できないことから、グレーター・マンチェスターのメイカーフィールド選挙区選出のジョシュ・サイモンズ下院議員が、バーナム氏に道を譲るため議員を辞職。同選挙区で下院補欠選挙が行われることになり、バーナム氏が労働党の公認候補として当選した。こうしてバーナム氏は、ウェストミンスターの中央政界へ復帰したのだった。