ニュルンベルク裁判の「最後の検事」が死去 103歳

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クリスティ・クーニー、BBCニュース

Ben Ferencz

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画像説明, ベン・フェレンツさん

第2次世界大戦後にドイツで開かれたニュルンベルク裁判の検事の中で、最後の存命者だった男性が7日、死去した。103歳だった。

ベン・フェレンツさん。ナチス・ドイツの将校らが戦争犯罪や人道に対する罪で裁かれ、有罪判決を受けたニュルンベルク裁判で検事を務めたとき、27歳だった。

その後、戦争犯罪を訴追する国際裁判所の設立を提唱。その願いは2002年に実現した。

7日夜、米フロリダ州ボイントンビーチの介護施設で就寝中、安らかに死去した。

米ホロコースト記念館は、「ジェノサイド(集団殺害)犠牲者のための正義を追求するリーダー」を世界は失ったとした。

フェレンツさんの息子で、同じく国際法関係の仕事をしているドナルド・フェレンツさんは、父親のことを、人生をかけて「法の支配の下で、より人道的な世界を作ろうとした」人物として思い出すだろうとBBCの番組ニュースアワーで話した。

「彼は非常に恐ろしいものを目にし、経験した。そのことが、ニュルンベルクの法廷をやり切ることになる情熱を強め、人生の他の部分でも彼に力を与えた」

ドナルドさんはまた、父親を「面白く」て「ちゃめっ気がある」人だったとし、「人生のすべての日で」仕事をしていたと述べた。

「釣りに行ったり、ゴルフをしたりするような人ではない」、「よりよい世界を作ることを人生の目的にしていた人だ」。

「消し去れないトラウマ」

フェレンツさんは1920年、トランシルヴァニア(ルーマニアの一部)で生まれた。反ユダヤ主義から逃れるため、子どものころに家族とともににアメリカに移住。ニューヨークに落ち着いた。

1943年にハーヴァード大学の法科大学院を修了し、陸軍に入隊。連合軍のノルマンディー上陸作戦やバルジの戦いに参加した。軍曹へと昇進し、ナチスの戦争犯罪の調査・証拠収集に当たったチームの一員となった。

このチームはドイツに展開していた陸軍の所属で、強制収容所が解放されるとそこに入り、それぞれの状況を記録し、生存者に聴き取り調査をした。

フェレンツさんはその後、「まきのように積み上げられた」遺体や、「下痢、赤痢、チフス、結核、肺炎などの病気にかかって、シラミだらけの寝台や地面の上で、哀れな目をして助けを求めている無力な骸骨」を発見した当時のことを語っている。

ドイツ国内で最大規模だったブーヘンヴァルト収容所については、「言い表せないほどの恐怖の納骨堂」だったとしている。

「ナチスの絶滅収容所での戦争犯罪に関する調査官としての経験が、私に消し去れないトラウマを残したのは間違いない」、「私は今でも、その詳細を話したり考えたりしないようにしている」とフェレンツさんは話していた。

虐殺部隊の裁判で主任検事

フェレンツさんは戦後、ニューヨークに戻り、弁護士として働いた。しかしすぐに、ニュルンベルク裁判でナチスを訴追するチームの一員となるよう求められた。

ナチス占領下の東欧で活動し100万人以上を殺害したとされる親衛隊の移動虐殺部隊「アインザッツグルッペン」のメンバーらの裁判では、主任検事を務めた。

この裁判にかけられた22人の全員が、少なくとも1つの罪状で有罪となった。14人に死刑が宣告され、最終的に4人が処刑された。

裁判が終わった後も、ドイツ語など6カ国語に堪能だったフェレンツさんは当時の西ドイツに残り、ユダヤ人団体が新政府から賠償金を得るのを支援した。

晩年は国際法の教授となり、戦争犯罪を犯したとみられる政府の指導者を訴追できる国際法廷の設置を求める運動を展開。このテーマで本を数冊執筆した。

2002年には、オランダ・ハーグに国際刑事裁判所が設立された。ただ、アメリカなど主要数カ国が参加を拒否したため、効果は限定的なものとなっている。

フェレンツさんには息子1人と娘3人がいる。妻のガートルード・フリードさんは子ども時代からの恋人で、2019年に死去している。